【離婚】父母の絶望と子供の絶望
「どうして、みんなひとりで、そんなにも深く深く、沈んでいくの?」
離婚したい方、情緒的な意味でよければ、子供目線から離婚したらどうなるか書いてありますので、よかったらどうぞ。
物心ついたころから、わからないながらに感じる陰鬱さに、そっと自分の部屋の扉を閉じてだまっていることが多かった。
とにかく暗く、憂鬱で、陰惨だった。
父は、きっとその母の陰惨さから逃げたんだ。
最低なやり方で。
世界のありかたを知らなかった娘を置いて。
置いていかざるを得ないほどの苦しみだったのかもしれない。
父も、母も、互いに対する愛情は本物だったし、子供に対する愛情は本物だったことはわかる。
父も母も努力はしたのだろう。
でも結果的に私は立派なアダルトチルドレンだ。
どこからおかしくなったのか
私の最初の記憶は、台所で暴力を振るわれている母親と、腕をふりかぶる父親の間に泣きながら入っていく場面だった。
父と母は、どうして結婚したんだろう。
どこのへんに恋愛があって、どういう面で二人が愛し合っていたのか、今となっては何もわからない。
母は父の罵詈雑言、父は新しい妻の話しかしないからだ。
そして私の記憶の中にも、父と母の仲睦まじい姿はないからだ。
しかし子供のころの写真は幸せそうなもので、両親が離婚してからの記憶が壮絶であって上塗りされているため思い出せないだけなのかとも思う。
私が12歳になったとき、父と母は離婚した。
理由は、父の不貞だった。
他に女性を作り、その女性が妊娠したのだった。
後日父から話を聞くには、父は不倫相手にその子供を産んでほしかったのだという。
母と離婚してそのひとと結婚するために。
しかし母はその不倫相手に子供をおろさせたのだという。不倫相手の夫とともに。
要するにダブル不倫であった。
命の殺人、不貞、両者の決定的な溝。
無実の胎児を巻き込んだありきたりな離婚のくだり。
ちなみに中絶を自分らの理由でする人、基本的に殺人ということをお忘れなく。
人間の死因第1位は中絶、らしいよ。
そんじょそこらの小学生だった私はそのことを知らされず、離婚は進んだ。
大人ながらに子供のショック、を考えてだろう。
イラついた母親に16歳の時に勢いで暴露されて心は死滅しましたが。。
ただ父母の性格の不一致という理由のみ伝えられて。
離婚そのものを理解するのにギリギリな年齢だったと思う。
理解できたからこそ意味が分からなかった。
いっそのこと、何もわからない年齢ならよかったのにね。
毎夜毎夜、なんらかの喧嘩が繰り広げられていて、
ものの割れる音や怒鳴り声は日常茶飯事だった。
まず母がキレ、父は淡々と答えるが、その淡々さに母はさらにキレる。
あまりに長く続く罵詈雑言にだんだんと父は耐えきれなくなり、最終的には黙らせるために暴力をふるう。
暴力を振るわれた母は泣きわめき、父はだまって家を出ていく。
毎夜、その繰り返しだった。
ふとんをかぶってふるえているしかなかった。
子供は、今思えば、どんなに無力か。
社会的な権利など何もない、財力もない、世界も知らない。生きていくすべも。
一見無邪気に見えるのも適切に大人に保護されているから。
何かしらあると、大人に黙ってついていくしかない。
楽しく遊んでいればいい子供ならよかった。よかったのにね。
「わたしはお母さんもお父さんもすき、3にんでいたい。」
この言葉が、出なかった。
なぜかわかる?大人を困らせちゃいけないと思うからだ。
無理なことだとわかっているからだ。
無言で大人の決めたことにうなずくしかなかった気持ちが親たちに、わかりますか。
しまいには互いが互いの悪口を、私に言うようになった。
都合のいいはけ口だった。
父の立場に立てば母は私をも罵倒した。
どうせ二人して私を責めるのね。
そんなに愛情のない娘とは思わなかった。
そんな風にして私を貶めたいんでしょ。そんなに母が嫌いならもう出ていって。
もう母の子供じゃないあんたなんか。
離婚してから
そんなことを言われながら、私は母とともに実家へと帰った。
あたりまえながら不貞を働いたのは父であったのでだ。
空港で父とつないでいた手を離されたとき、はじめて虚無感に襲われた。
両の手につないであった手は、片方になった。
後ろを振り返らない母の後ろ姿は今でも鮮明に覚えている。
母は実家から出て2人で生計をたてるため働き始めた。
おそらく10数年ぶりのフルタイムの仕事。
母は毎日余裕がなかった。
40代に差し掛かる無資格の母の仕事の収入は少なく、2人暮らしがギリギリだったことは容易に想像できる。
当時の自分は何も言われなかった。もちろん中学生になったばかりの子供だったからだ。うちはお金がないのよと笑いながら言われたことはある。
だからお金はできるだけ使わなかったし、食事はいつも豆腐と納豆とごはんだった。
しかし悲観的で陰鬱で気の弱い母のことだったので、しばらくすると仕事場でつらくあたられるようになったといってさらに沈むようになった。
そして周りから見ても様子がおかしいというレベルになってから仕事をやめた。
しかし母以外に生計を立てる人なんかいない。
母と私は母子家庭なのだから。
父は微々たる、本当に微々たるお金を月に1回振り込んでくるだけで自分のやるべきことはしていると口出ししなかった。しらんかおだ。
なぜ完全に母と私のことを見捨てられたかというと、おそらく自分に新しい妻と子供ができたからだろう。あたらしいものができれば、昔のものはいらない。
あたりまえの感覚だったんだろう。
して、他の仕事についたはいいが、その仕事はあまりにも体力勝負の仕事であったので、母にはとても務まらなかった。数日でやめた。
夫に裏切られたストレス、離婚のストレス、自分で生計を立てなければならないストレス、子供を守らなければならないストレス。強烈な劣等感、このままでは生きていけないという絶望感。駆り立てられる気持ち。
母は、案の定、ぶっ壊れた。
世間でよく言われる大うつ病に罹患した。
家に帰ると、母親は玄関で震えていた。
私が声をかけると震える手で私のセーラー服をつかみ、やせこけた顔でこちらを見ていった。
「私は死ぬべき人間よね、ごめんね。本当にごめんね。だめだった。」
首には絞首の跡。ひものようなものは家じゅうからとりあげていたのに、私の体育館シューズの靴紐をつなげて首をつったらしい。
でも失敗したから、私にあやまっていたらしい。
私だってぶっ壊れたかった。いっそのこと。
なんでわたしだけこんな目に。15歳ころの子供だった。それくらい思うだろう。
だが私がぶっこわれたらその有様を目撃した母がいよいよ本当に自殺を完遂するのではないかという恐れのほうが勝った。
結局うつ病が治るまで1年、親戚の家で生活した。
2人暮らしはもちろん破綻した。
親戚の家に暮らすいとこたちに怪訝な目で見られながら生活をした。
もはやその時点で私は死にたかった。
私は私で、なんでも心配する母親にこう言われて育ったのだ。
「勉強しなさい。頑張りなさい。さもなくば学も資格もない、母みたいになるよ」
やせこけた手で両肩をつかまれ、ゆすられながら言われれば誰でも恐れおののいて忠実に守るだろう、その言葉を。
だからとにかく勉強した。
馬鹿にされても、がり勉と言われても、もともとの父ゆずりの頭の良さを生かして勉強した。偏差値は70を超えた。
子供のしごとは勉強すること。勉強して、いい大学へ行けば自分の未来は広がる。
女でも、母のように人生になにがあっても、確実にお金を稼いで生きていけるようになる・・・
それが私なりの子供時代の考え方だった。
しかし有名な進学校へ進むたびに、頭がいいねといわれるたびに、母は私にすごいねと言いながらその奥には嫌悪をにじませていた。
皮肉なことに私の頭も、外見も、父親似だったからだ。
成長するたびに私はどんどん父親に似ていった。
母は、そんな私を見て罵倒するようになった。
あまりにも罵倒されるので母に反抗するようになった。
そのたびに母親は「醜い父親そっくり」と私にいって憎たらしげにこちらを見た。
父からは捨てられ、母からは罵倒される。
7階の家の窓枠に足をかけたことすらあった。
あと少しで、楽になれる。
しかしその一歩の勇気がなかった。
どんなに勉強を頑張っても認めてもらえるどころか罵倒の材料になるだけだった。
少しずつ、成績は落ちた。
それでも国立大学へ進学した。
そして気づくことがあった。
勉学のレベルが上がるほど、家庭のレベルが上がっていく。
気づけば私の周りには「いいところ」のお嬢さんたちしかいなくなっていた。
県営住宅育ちの母子家庭なんぞ口が裂けても言えなかったのだった。
子供ながらに格差を感じた。そんなことにすら気づかないのが子供だった。
もう15歳にもなれば大人、そんな風に世間では言われることもある。
しかしまったくだめだ。15歳程度なんか。子供も子供だ。
保護すべき存在だということを、わかってもらいたい。
続く。